会津若松は、150年前の戊辰戦争で最大の激戦地となりました。
会津若松は、会津地方の中心都市です。
会津地方は古墳時代(4世紀頃)から栄えた大きな盆地ですが、1590年に伊勢松坂から蒲生氏郷(近江日野の領主出身)が移って領主となることにより、飛躍的な発展を遂げることになります。
会津若松もその前までは「黒川(羽黒川のほとりの土地)」という地名だったのですが、蒲生氏郷が鶴ヶ城を築いて、一帯を城下町として整え、地名も「若松(若々しく緑豊かな土地)」へ改めました。
また、蒲生氏郷は産業の進んだ近畿地方から漆器や酒造、瓦や陶器といった技術を会津地方へ導入し、商工業を盛んにしました。
福西本店の面する大町通り(赤レンガ通り、野口英世青春通り)も蒲生氏郷が整えた商業のメインストリートです。
この大町通りには、黄熱病や梅毒の研究で知られる世界的な医学者野口英世が医学の基礎を学んだ会陽医院(渡部鼎院長)があり、今はレトロなカフェ(會津壱番館)として利用されています。
その後、江戸時代に入って(1643年)、二代将軍秀忠の庶子、三代将軍家光の異母弟である保科正之が会津地方の領主となり、会津松平家の治世がはじまります。
幕末(19世紀後半)、日本が徳川幕府側(東軍)と新政府側(西軍)に分かれて戊辰戦争となる中、会津松平家は徳川幕府側に立って戦い、1868年8月から約一ヶ月間、会津若松城下は激戦地となりました。
この戊辰戦争で会津藩は二千名を超える犠牲者を出すのですが、出兵した藩士に限らず、白虎隊や婦女子の自害をはじめ、城下では幾多の悲劇が起こったのです。
※4 鶴ヶ城の落城時の写真「敗戦後の鶴ヶ城」、現在の写真「再建された鶴ヶ城」を掲載する。
福西本店の南奥にある塩蔵には、攻めてきた土佐藩士の落書きが残されています。
※5 落書きの写真を掲載する。ただし、富士山の方を。
この大きな内戦は土方歳三が戦死する函館まで続き、徳川幕府側の敗北に終わりますが、日本は明治政府が全国を治める体制へ、武士が退場する時代へと変わることになります。
その後、会津若松は歴史の表舞台から遠ざかり、今でも城下町の風情を残し、落ち着いた街並みを今に伝えています。
戊辰戦争の一場面(福島県立博物館所蔵)
會津壱番館
敗戦後の鶴ヶ城と現在の再建された鶴ヶ城
土佐藩士の落書き
福西家伝来のお宝を無料で見学できます。
代表的なものを母屋2階の「福西家伝来の間」で公開します。
福西家は、その長い歴史の中で数々の美術品、工芸品を収集してきました。
特に十代目伊兵衛は酒井三良(さかいさんりょう)をはじめとする同時代の文化人や芸術家と交流を重ね、彼らの作品も収集してきました。
そのうちの一つが、加藤遠澤(かとうえんたく)の山水図(掛軸)です。加藤遠澤は会津出身の人で狩野探幽(かのうたんゆう)に師事し、会津地方における狩野派(江戸時代の専門画家集団)の第一人者、会津藩のお抱絵師となりました。遠澤の画がある家であれば嫁に出してもよい、と昔から伝えられているほど珍重されたのです。
※1 山水図(掛軸)の写真を掲載する。
もう一つが、山内多門(やまうちたもん)の虎渓三笑図屏風(こけいさんしょうずびょうぶ)です。山内多門は宮崎県出身で川合玉堂(かわいぎょくどう)や橋本雅邦(はしもとがほう)に師事し、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家で、会津へ来訪して福西家と交流があったと推測されます。
※2 虎渓三笑図(屏風)の写真を掲載する。
さらに、小川芋銭(おがわうせん)が会津本郷焼の閑山窯(かんざんがま)で絵付けした花瓶も、小川芋銭や酒井三良(さかいさんりょう)、寺崎広業(てらさきこうぎょう)といった画家と福西家の交流を伝えています。
※3 染付花瓶の写真を掲載する。
細密な寄木細工の飾り棚も残されています。この飾り棚は、1925年のパリ万国博覧会へ出展されたものを買い求めたと伝わっています
収集品の数々(クリックして拡大表示)